2017/6/9
前回、慶応大学の前野教授の「受動意識仮説」を考察していく中で、「エピソード記
憶」から「意識」が形成されていくうちに、「時間」も生成されたのではないかという可能性が示された。
このサイトのメインテーマ「タイムトラベル」を考えるにあたって「時間」は最も重要な要素である。
このサイトをつくったときに「時間とは何なのか?」を調べていたときに出会った本、
SF作家で科学評論家でもある橋元淳一郎氏の著書「時間はどこで生まれるのか」をもとに、今回は「意識から生まれる時間」について考察していく。
橋元氏はこの本の中で、19世紀から20世紀にかけて活躍したイギリスの哲学者、ジョン・マクタガートの時間のとらえ方のうち、C系列の時間だけが実在する時間だといっている。
「時間って何だ?(相対論的スポットライト理論)」でも紹介したが、あらためてマクタガートが考えた3系列の時間について説明しておこう。
A系列は、「現在」を基準に「過去」と「未来」をとらえる時間で、未来だったものが現在となり、現在は過去へと変化していく。
B系列は、「○は×より前」とか「×は○より後」という前後関係で表現される時間で、2つ以上の関係がなければ成り立たない。
A系列はわれわれが普段感じている「主観的な時間」、B系列は数学や物理学などの時間軸で使用される「客観的な時間」といえる。
3つめのC系列は、イ・ロ・ハやA・B・Cといった単なる配列で、時間そのものではない。
単なる配列であるC系列に、変化するA系列の時間を加えれば、方向性をもったB系列の時間になる。
ちょっとまった。ここで皆さんは混乱するだろう。
なんで橋元氏は時間ぽいA系列やB系列ではなく、C系列の時間こそが実在すると考えたんだ?
物理に関する書物をたくさん書いている科学評論家らしく、橋元氏はその理由を相対性理論と量子論で説明する。
相対性理論では時間は絶対的なものではなく、それぞれの観察者にとって相対的なものだ。
つまりみんなに共通の「今(現在)」という時間はなく、それぞれの観察者によって「今」は異なる。
つまり基準となる「今」はないので「主観的な時間」であるA系列は否定される。
さらにミクロの世界を扱う量子論では、不確定性原理により粒子の位置と運動量を同時に知ることはできない。
簡単にいえば、粒子が「いつ」、「どこに」あるのかは正確にはわからない。
しかも「反粒子を使ったタイムトラベル」で紹介したような「時間を逆行する粒子」も存在する。
ミクロの世界では、時間はあいまいなものであり、しかも可逆的ですらあるので、方向性をもつB系列の時間も否定される。
従って時間が実在するとすれば、単なる配列であるC系列の時間だけだというのが橋元氏の主張だ。
※マクタガートも導き方は異なるが、同じように「時間は実在しない。もしあるとすればC系列の時間だけだ」といっている。
さて量子的なミクロの世界では方向性をもたない時間でも、われわれが普段生活しているマクロの世界では、時間は過去から未来へと一方向へ流れていく。
これはなぜなのか?
橋元氏は、この「方向性の出現」をマクロな物理の法則である熱力学第2法則、つまりエントロピーの増大によるものだとした。
このサイトでも「時間とは-時間の矢」で紹介しているが、この宇宙では、秩序のある状態は無秩序な状態へと、自然に変化していく。
コーヒーにクリームを入れると混ざり合い、お湯の入ったカップを放っておくと、周囲の空気に熱が伝わって次第にお湯は冷めていく。
いったん混ざったクリームをコーヒーから分離することも、やかんに水を入れておくと自然にお湯が沸くこともない。
この方向性がエントロピー増大の法則である。
この方向性をそのまま時間の方向性として「時間の矢」と呼ぶ場合もあるが、橋元氏は少し違った説をとく。
われわれの宇宙では物事は秩序のある状態から放っておくと秩序のない状態になってしまう。
これはこの宇宙に存在するすべての生物にも当てはまる。
つまり生物の身体も放っておくと、秩序のある状態「生」から無秩序な状態「死」へと崩壊してしまう。
エントロピー増大の方向性に抗って秩序のある状態を保とうとするのはわれわれの意思だ。
その意思によって生み出されたのが「時間」なのだ。
仮に無秩序な状態から自然に秩序が生まれてくるようなエントロピーが減少する宇宙が存在したとすれば、そんな宇宙では意思をもった生物は存在する必要がないし、時間も存在しない。
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これはおもしろい考え方だ。
橋元氏の本のタイトルが「時間はどうやって生まれるか」ではなく、「時間はどこで生まれるのか」なのは、時間は「脳」の中で「意識」によって生成されることを強調したいからだろう。
われわれの脳で生まれた「意識」はエントロピーの増大に逆らって必死に秩序を保とうとする。その過程で瞬間瞬間の意識が脳の中に記憶を形成していく。
積み重なった記憶は「過去」の記憶となり、まだ意識の知りえぬ未来の記憶が想起され、やがて「時間」という概念がわれわれの意識に芽生えていく。
われわれがやがて「死」を迎えると、必死に押さえつけてきた意識から解放されて、エントロピーが増大し、身体は崩れる。
そして、われわれの脳の中にあった「時間」も消失する。
これが橋元氏の主張する「意識から生まれる時間」である。
前回考察した前野教授の受動意識仮説と似ているが、前野教授の説では「意識」がエピソード記憶を獲得していく上で「受動的」に生成されるのに対し、橋元氏の説ではエントロピーの増大に逆らって「積極的」に生まれると考える。
個人的には「受動的」な前野説よりも、「積極的」な橋元説の方が好きだが、問題なのは「魂」の存在だ。
2つの説に共通するのは、われわれの意識で芽生える「私」という実感は、脳が作った幻想であるという心身一元論的な考え方だ。
今までの考察を踏まえると、われわれには心と身体の2つの実体があるという心身二元論は幻想で、心と身体は1つのもの、切り離すことはできないと考えざるえない。
おいおい! これでは「心(魂)」を身体から切り離して、時空を超えて対象を観察するというリモート・ビューイング自体が成立しなくなってしまう!
せっかく4回も続けて考察してきたのに・・・。
ここまでつきあっていただいた方に申し訳ない・・・。
私が記事を毎回見切り発車で書きはじめていることも、ばれてしまう・・・(恐縮です)。
もう一度最初に仮定した心の階層図を見てみよう。
ここまでの考察を振り返ると、一番上の自我と、真ん中の無意識は、脳が作ったもので間違いないだろう。
そして最下層の魂なんて存在しない・・・。
でも何かがひっかかる。何か腑に落ちない。論理的には正しいのかもしれないが・・・。
みなさんが一般的にイメージする「魂」とはこんな感じだろう。
われわれが死んだ後、魂は身体から抜け出し死後の世界へと旅立っていく・・・これが一般的にいわれる魂だ。
でも私が心の階層図で示した最下層の魂は、このような魂のイメージとは少し違う。
でもうまく表現できない。
ほとほと困り果てたとき、前野教授の2013年の著作『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』からヒントをもらった。
おもしろいタイトルのこの本は「人はなぜ死を恐れるのか?」からはじまり、受動意識仮説をベースに「われわれは死を恐れる必要はない」ことを説いている。
でも個人的な感想ながら「死を恐れることはない」という説得が成功しているようには思えない。なぜならこんな感じだからだ。
・受動意識仮説が正しいとするならば、自我や心は脳が作った幻想だ。
・われわれの身体は心という幻想を鑑賞するための移動式観測装置だ。
・幻想である心は、死んでしまえばなくなり、それでも世界は続いていくのだから、心や身体があなたの所有物といのも幻想だし、そこに何の意味もない。
・死は1つの観劇システムの終了にすぎない。
前野先生、ちょっと淡白すぎるよ・・・(理系の人には受けがいいみたいだが・・・)。
前野教授は「すべてのものに意味などない」というニヒリズム(虚無主義)を主張し、死の瞬間は睡眠や全身麻酔みたいなもので、その瞬間を脳は感じることができない。だから怖がる必要はない。
死ぬ恐怖など考ないで未来を憂うことなく、過去をくよくよせず「今」だけを精一杯イキイキと生きていこう!
・・・なんてそんな簡単に「割り切って前向きになれるかーい」と思ってしまったが、この本の中で1つだけ気づいたことがあった。
前野教授はわれわれの心を「脳が見せる劇場」だといっている。
「このフレーズ、どこかで見たぞ!」と記憶を探って思い出したのが、「ドッペルゲンガーの謎(1)」で町田の壁抜け少女(スレ主のドッペルゲンガー)が語った世界の真実だった。
・われわれが意識と認識しているものは錯覚。
・この世界は上位にあたる存在が主人公を演じるための舞台であり、われわれのほとんどはプログラムで意思を持たず、運命が決められている。
・われわれはその運命に沿って認識するのみで、その経験を上位の存在が鑑賞・体験・実感するためのモニター的存在。
どうだろう? 似てはいないか?
前野教授いわく「われわれは脳が作り出した心という幻を鑑賞しているにすぎない」。
町田の少女いわく「この世界はわれわれの上位の存在が作った劇場で、彼らのための娯楽の世界」。
前野教授はわれわれの意識が進化の過程でエピソード記憶から生まれたとする。
橋元氏はわれわれの意識がエントロピーの増大に逆らって秩序を保つために生まれたものだという。
前野教授の言葉に従えば、われわれの意識は遺伝子が進化に適応する過程で生まれた(本当は意思のない)プログラムだ。
橋元氏の説も同様に、意識を、秩序を保つためのプログラムととらえることができる。
2人の主張で異なるのは、前野教授が「エピソード記憶によって意識がもてるのは人間のような高等な生物だけ」という考えに対し、橋元氏は「生き物すべてが秩序にさからう形で意識をもてる」と考えているところだ。
現代まで生き残っている生物は植物や昆虫も含めて(それが積極的に環境に適応したにせよ、偶然生き残ったにせよ)過去の激しい「種」の生存競争を勝ち抜いてきたわけだから、私は橋元氏の主張「エントロピー増大に逆らう意思を、すべての生物がもっている」という考えに賛成する。
でも、そんなすばらしいわれわれの意識は幻想でプログラムにすぎない。
進化はなぜ起こるのか?
エントロピーはなぜ増大するのか?
それを前野教授や橋元氏は説明していない。
「ドッペルゲンガーの謎(1)」~「ドッペルゲンガーの謎(3)」の考察が最終的にどんな結論になったか。
「この世界は何者かによって創造された、シミュレーションである」
理論物理学者ブライアン・グリーン博士が説明するホログラフィー原理によると、物質がブラックホールに落下するとき、まるでコンピューターに0と1で情報が蓄積されるように、そのすべての情報のコピーがブラックホールの事象の地平面に付着するという。
この考えを発展させて、アメリカの物理学者レオナルド・サスキンド博士やオランダの物理学者ヘーラルト・トホーフト博士らは、ブラックホールだけでなくこの宇宙全体が、はるかかなたにある事象の地平面に描かれた2次元の情報の投影にすぎない可能性を示した。
前々回の「リモート・ビューイングで過去を見る方法(2)」で紹介した「ホログラフィー宇宙」である。
もしも、心の階層図で示した魂が、ホログラフィー原理で示された事象の地平面とアクセスするための「絆」の機能をもっていたとしたら、どうだろう。
われわれの自我は脳で作り出した幻想である。
ただしわれわれの脳は量子のもつれによって事象の地平面とアクセスしている。
だからエピソード記憶をもたない生まれたての赤ちゃんでも「私」という個性をもつことができる。
事象の地平面、つまり、われわれの宇宙の情報がはじまりから終わりまで描かれた2次元平面の設計図に基づいてわれわれは進化する。
ただし事象の地平面にある情報は離散的ものであり、そのままではエントロピーは増大してしまう。量子もつれによってアクセスするたびにエントロピーを無秩序から秩序へと収束させているものが、「魂」なのかもしれない。
火の玉のような一般的な意味での魂ではなく、事象の地平面への架け橋となる機構としての魂。これは「過去を見るタイムマシンの作り方(3)」で紹介した「クォンタム・アクセス」のイメージとも一致する。
「世界で最も影響力がある100人」に選ばれたロバート・ランザ博士もいっているではないか。「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と。
この言葉は、量子もつれによる魂と事象の地平面とのアクセスによって、われわれの宇宙で物質が実在していくことをイメージしているのかもしれない。
さてそれでは次回、いよいよこの仮説をもとにリモート・ビューイングの原理と過去を見る方法を考えてみよう!