2020/12/18
2020年ノーベル物理学賞受賞者のひとり、イギリスの名門オックスフォード大学名誉教授・ロジャー・ペンローズ博士。
一般相対性理論からブラックホールの形成を数学的に示したというのが授賞の理由だ。
ペンローズ博士の功績はこれだけにとどまらず、スティーヴン・ホーキング博士とブラックホールの特異点定理を証明したり、建築不可能な構造物の絵で有名なオランダの画家・エッシャーに影響を与えたりと、とにかくすごい科学者だ。
そんなペンローズ博士が、1989年に「皇帝の新しい心」という著書の中で発表した「量子脳理論」(wiki)は、「われわれの意識が量子力学的な過程から生まれる」という画期的な理論だ。
もしかしたら「臨死体験」や「生まれ変わり」、さらにはこのサイトのテーマの1つ「タイムリープ」の謎を解くカギになるかもしれない。
ただ、この「量子脳理論」、とても難しい。
たとえばペンローズ博士がこの理論を思いつくきっかけになった「ゲーデルの不完全性定理」(wiki)。
これから説明をはじめると、私の技量では、本題にたどり着くまでにきっと皆さんを混乱させてしまう。
※ちなみに「ゲーデルの不完全性定理」は、どんな数学の理論にも、証明も反証もできない命題が存在する(第一定理)、そして自分の正しさを自分自身では証明できない(第二定理)という2つの定理から成っている。
だから、わかりやすさ優先で説明したい。
まずペンローズ博士の「量子脳理論」とはどんな理論なのか?
ペンローズ博士によれば、われわれの「意識」は、量子力学的な過程によって生み出されるという。
量子力学的な過程? なんだそりゃ?
意識って、脳のニューロンが発火して、そこから生まれるんじゃないの?
わざわざ新しく小難しい理論なんか作らなくたっていいじゃん。
そう考えたあなたは、ある意味正しい。
この理論をペンローズ博士が発表したとき、生物学者から同じような反論があった。
それにもまして、AI(人工知能)を研究するコンピューターの専門家からは、もっとひどく批判されたそうだが・・・。
これについては後半に説明する。
では、なぜペンローズ博士が「意識」に関する新しい理論を提案したのか?
「われわれの意識がどうように生まれるのか?」について、まだまだわかっていないことがあるからだ。
その1つが「結びつけ問題」。
例えば「赤い円が右に動いている」という情報が脳に入ったとき、脳は「赤」という色、「円」という形、「右に動いている」という動きのそれぞれの情報を、脳の別々の場所で知覚する。
だが、われわれはそれを上手に「赤い円が右に動いている」と結び付けて理解できる。
この別々の場所で知覚する情報をどのように結びつけるのか、その仕組みがわかっていない。
これは脳科学における未解決問題の1つだ。
ペンローズ博士によれば、この別々の場所で知覚される情報は、脳のある器官が量子力学的に働き、その「非局所性」という性質によって結びつけられるという。
まず、量子力学の「非局所性」から説明しよう。
「量子力学」の「量子」とは、光子や電子といった物質やエネルギーを構成する一番小さな単位「素粒子」のことだ。
素粒子のミクロの世界では、普段われわれが目にするマクロの世界では考えられない不思議な現象が起こる。
たとえば、2つの素粒子を「もつれ関係」にすると、2つの粒子をどれだけ引き離しても、1つの粒子の状態が決まると瞬間的にもう一方の粒子の状態が決まる。
もう1つ、素粒子は、「波」と「粒」の2つの性質をもっている。
素粒子は、普段は波のように空間に広がっており、場所を特定することができない。
観測されてはじめて「ここにある」と場所を特定することができる。
これらを合わせて量子の「非局所性」と呼ぶ。
なお素粒子がどこに現れるか?は「シュレーディンガー方程式」という方程式によって「あの辺に現れそうだ」と確率的に決まり、この素粒子が特定の場所に出現することを「波動関数の収縮」という。
また観測によって空間に波として広がっていた素粒子が、1つの場所に粒子として収束するという考え方を「コペンハーゲン解釈」という。
なお観測するのは人間でも実験装置でもかまわない。
※「コペンハーゲン」とは、このアイデアを1920年代に考案した量子力学の父、ニールス・ボーアの研究所がデンマークのコペンハーゲンにあったことにちなむ。
※また「波動関数の収縮」には他の意見もあって、観測によって1つの粒子に収束するのではなく、観測するごとにさまざまな可能性の世界に別れていくという「多世界解釈」という考え方もある。
詳しくはこのサイトの「多世界解釈の勘違い」を参照。
現在の量子力学ではこの「コペンハーゲン解釈」が主流だが、ペンローズ博士は「波動関数の収縮」について、独自のアイデアを提案している。
それが、観測によってではなく、「重力」の作用によって、自発的に「波」から「粒」へ収縮するという仮説だ。
ペンローズ博士はこの広がった波の状態に、1グラビトンの質量差が生まれたときに「波動関数の収縮」が起こるという。
※グラビトンとは未発見の重力を構成する素粒子。
1999/3/15 J-STAGEより
しかしその詳しいメカニズムは、量子力学と重力を統合する「量子重力理論」が完成するまではわからない。
われわれが普段暮らしているマクロの世界の法則は、一般相対性理論によって説明される。
また素粒子のミクロの世界の法則は、量子力学によって説明される。
普通に考えれば、マクロもミクロもスケールの違いだけで、どちらもわれわれの世界なので、同じ法則が通用しそうなものだ。
だが、量子力学が支配する世界で重力のふるまいを説明することができず、この2つはいまだ統合できていない。
この2つを統合する理論は「量子重力理論」、または世界の仕組みを説明する究極の理論なので「万物の理論」と呼ばれ、その候補としてペンローズ博士は「ツイスター理論」という時空を量子力学的な複素空間まで拡張した理論を研究している。
ペンローズ博士は、この未解明なミクロの世界での重力の働きによって波動関数が自発的に収縮し、意識が生まれるという。
では、この波動関数の収縮はどのようにして起こるのか?
次は「量子脳理論」の「脳」の部分に注目してみる。
ペンローズ博士によれば、脳の「微小管」で波動関数の収縮が起こると考えている。
「微小管(マイクロチューブル)」とは脳の神経細胞にある器官で、ペンローズ博士は、アメリカの麻酔学者、スチュワート・ハメロフ博士から、この微小管が幾何学的な構造をもち、量子的な働きをしている可能性があるとの情報を得て興味をもった。
微小管はチューブリンというタンパク質が円筒形に連なっており、このチューブリンは伸びた状態と縮んだ状態の2種類の形を取ることができ、この2つの状態が量子的な重ね合わせとして機能すると仮説を立てた。
ペンローズ博士とハメロフ博士は共同で、1996年にこの仮説を「Orch-OR(オーチ・オア)理論/Orchestrated Objective Reduction Theory」(統合された客観的収縮理論)として発表した。
「Orch-OR理論」のポイントは、意識をもつわれわれが主体的に観測することで波動関数の収縮が起こるのではなく、逆に、波動関数が収縮する過程で、客観的にわれわれの中に意識が生み出されるところだ。
つまりわれわれの意識は、量子力学の波動関数の収縮を利用して、客観的に生まれてくるというのだ。
ペンローズ博士は意識が生まれる過程を、3つの世界図で表現している。
3つの世界はそれぞれ、「プラトン的世界(数学的世界・真の世界)」、「物理的世界(われわれが暮らす世界)」、「心の世界(精神的世界・意識の世界)」だ。
※ペンローズ博士はこの3つの世界の色分け(プラトン的世界が黄色、物理的世界が青、心の世界が赤)にこだわっている。
それぞれの世界は次のように関係している。
「プラトン的世界」はものごとの原型となる真の世界・数学的な世界で、この世界の一部から、われわれの暮らす「物理的世界」が生み出される。
「物理的世界」の一部からは、われわれの意識「心の世界」が生まれる。
そして「心の世界」の意識的な活動の一部が、「プラトン的世界」を理解する。
このように3つの世界がぐるぐるとまわって、それぞれの世界の小さな領域を通じて「非局所的」に1つにつながっている。
もう1つ、ペンローズ博士といえば、次のような現実には存在しない三角形が有名だ。
ペンローズ博士いわく、この2つの三角形を比べると、よく似ている。
ペンローズ博士によれば、この三角形の3つの項点は、局所的に見るとつじつまが合っているように見えるが、全体として見ると、こんな三角形はありえない。
つまり全体としてみると、非局所的なのだ。
ペンローズ博士の2つの三角形は、量子力学的な「非局所性」という点で共通している。
「意識」が「量子力学的な過程」から生まれるという画期的な「量子脳理論」だが、さまざまな批判も浴びた。
代表的なのは以下の3つだ。
【批判1】脳が活動するマクロの世界と量子効果の現れるミクロの世界は大きく異なる。
【批判2】微小管に量子的な働きをする機能は備わっていない。
【批判3】「量子力学な過程により意識が生まれるのは人間だけで、AI(人工知能)は決して意識を持たない」というペンローズ博士の主張は間違っている。
【批判1】と【批判2】に関して、
・微小管の大きさは25nm(0.25-9m)に対し、量子的な最小単位のプランク長は1.61×10-35mと、桁にして26桁以上もスケールが違う。
・マクロの世界で量子効果を起こすには超電導のように絶対零度近くまで冷却する必要がある。人間の体温では通常起こらない。
・微小管の機能は、細胞の構造の維持、細胞分裂、細胞内の輸送などさまざまであるが、量子的な働きをするという事例は見つかっていない。さらに微小管は脳の神経細胞以外にも存在する。
以上から、微小管の中で量子効果が起きるというペンローズ博士の主張は、現時点的ではなかなかきびしくなっている。
【批判3】に関して、
ペンローズ博士は、1989年当時「AIが進化すればやがて意識をもつようになる」という楽観的なコンピューターの専門家たちの意見を危惧して「皇帝の新しい心」を発表した。
しかし2020年現在、量子力学的な重ね合わせの仕組みを取り入れた「量子コンピューター」や、AIが急速に進歩するきっかけとなった「ディープラーニング」など新しい技術が登場し、人間の知能を超えるAIを、AIが自ら生み出す「技術的特異点」がいずれやってくるかも・・・と言われている。
人間の知能を追い越したAIが、人間と同じような意識をもつとは限らないが、1989年と比べて「AIは決して意識を持たない」とは必ずしも言いきれなくなっている。
では「量子脳理論」はすでに終わった理論なのか?
そんなことはない。
ペンローズ博士が一般相対性理論と量子力学を統合するために研究している「ツイスター理論」は、超弦理論の最先端「M理論」を研究するアメリカ・プリンストン高等研究所のエドワード・ウィッテン博士の協力によって、量子重力理論の新たな展開を迎えた。
※ツイスター+ひも=時空の謎解き(日経サイエンス2010年8月号)
ツイスター理論と超弦理論を組み合わせることによって、「時間」や「空間」が、この世界の根源ではないことがわかってきた。
「時間」や「空間」は、何かから創発されるのだ。
では、この世界の真の根源は何か?
それが、なんと「非局所性」なのだ。
現在、空間が創発的なものという理論では、「量子グラフィティ」や「行列模型」、「因果関係のウェブ」、「ホログラフィー原理(Ads/CFT対応)」などが研究されている。
さらに空間も時間も前提としない、数学的・幾何学的ネットワークによる「アンプリチューヘドロン」という手法も、プリンストン高等研究所のニーマ・アルカニ=ハメド博士たちによって研究されている。
※詳しくはこのサイトの「この世界の真の姿は『非局所性』-アンプリチューヘドロン-」を参照。
「この世界は『非局所性』が真の姿」ということは、ペンローズ博士が示した3つの三角形のうち、象徴的な概念としか考えられていなかった「プラトン的世界」が、実在する可能性があるのだ。
つまり、
①プラトン的世界という真の根源の世界の一部からわれわれの世界(影)が生まれ、
②この世界の一部であるわれわれから、意識が生み出され、
③われわれの意識の一部は、プラトン的世界を理解する(観察する・知る)のだ。
この③の過程がもしかしたら、臨死体験だったり、生まれ変わりだったり、タイムリープなのかもしれない。
ペンローズ博士の「量子脳理論」とともに、時間や空間を前提としない「非局所性」の今後に注目したい。
この記事は1997年に出版された、脳科学の権威・茂木健一郎氏と日本を代表するサイエンスライター・竹内薫氏の解説による「ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて (ちくま学芸文庫)」(文庫版は2006年)と、2005年「考える人」に掲載された茂木氏によるペンローズ博士へのインタビュー記事「ペンローズへの巡礼」を主に参考にしました。