2017/6/2
CIAも研究していた、時間と空間を越えてターゲットを観測する「リモート・ビューイング」の原理を解明していくにあたって、「心(魂)」が本当に実在するのか、その可能性を探っていく。
前回われわれの意識を3つの階層に分けた。
一番上の表層に普段われわれが「私」として認識している「自我」を置き、その下に環境に応じて自動的に反応する「無意識」を、そして最下層に「魂」を仮定した。
前回紹介した慶応大学の前野教授の「受動意識仮説 」やジュリオ・トノーニ教授の「意識の統合情報理論」に従えば、「自我」~「無意識」までは「脳が心をつくっている」という心身一元論が正しいように思える。
しかし東大医学部部長の矢作医師や、米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」に選ばれた再生医療専門医のロバート・ランザ氏のように、「死後の世界」や「魂はある」と主張する、心身二元論の立場をとる人もいる。
どちらも専門家の意見なので簡単には否定しがたい。
だが、そもそもリモート・ビューイングは「心(魂)」を身体から切り離して、時空を超えて対象を観察する方法だ。
つまり脳と心が切り離せない心身一元論では説明ができないのだ。
でも、例えば、前野教授の受動意識仮説を前提になお、その下に「魂」の存在を仮定することはできないだろうか?
そこでITmediaNEWSに掲載された「意識は機械で再現できる」という前野教授の受動意識仮説に関する記事を元に考察していく。
●第4章-1 「意識は機械で再現できる」 前野教授の「受動意識仮説」
2009/5/27 ITmediaNEWSより
及び
●第4章-2 生物がクオリアを獲得した理由 「受動意識仮説」で解く3つの謎
2009/5/28 ITmediaNEWSより
2009年と今から8年前の記事だが、前野教授が「受動意識仮説」を思いついた経緯が紹介されている。
もともとキャノンに勤めていた前野教授は超音波モーターの開発などで成果をあげ、慶応大学に移った後に人の触覚に関する研究をはじめた。
そしてアメーバなどの単細胞生物でももっている「触覚」という原始的な感覚のアプローチから、はるかに高尚な人間の脳のモデルにたどり着いたという。
その過程はこうだ。
触れた物の質感を人に伝えるためのデバイス「触覚ディスプレイ」の開発において、前野教授は「触覚」という因子のあいまいさに苦労した。
「聴覚」ならヘルツ、「視覚」なら明度や彩度というように、パラメーターを数値化しやすいが、「触覚」には明確に定義できるものがなかった。
そこで、摩擦や凹凸、冷温感、対象の熱伝導率などをパラメーターにした。
その際「つるつる」や「ざらざら」といったあいまいな触覚を、数値ではなく「パターン」として記述することにした。このパターンによる表現によって、数値では語りつくせない質感などが定義できるようになった。
そして「パターンによる表現は、クオリアの解明などにも応用できるのではないか?」と考えた。
さらに前野教授は触覚の研究で、われわれの指先にある「指紋」に注目した。
われわれは物をつかむとき、対象が重ければぎゅっと力を入れて、軽ければスッと優しくつかむことができるが、これは無意識に指先の皮膚にある指紋が触覚受容器として情報をフィードバックさせている。
単なる滑り止めの機能しかないと思われていた指紋が、実は大きな役割を果たしているのだ。
例えば指紋の端がすべりを感知すると、人間はぎゅっと力を入れるが、人間が意識できないレベルで小さく振動させても、無意識にその振動を感じて、ぎゅっと力を入れることができる。
こうした「触覚」におけるプロセスは、指先や脊髄反射、さらには質感を判断する大脳皮質など、さまざまな部位で同時並行的に分散処理される。
前野教授はこうした並行的な分散処理が「脳でも行われているのではないか?」と考えた。
つまり触覚や視覚は「外部」の情報とやりとりをしているが、脳も記憶などの「内部」の情報とやりとりをしてわれわれの意識を生み出しているのではないのか、という「受動意識仮説」である。
受動意識仮説では「私」という主体が身体を制御しているという実感は幻想だとする。
「私」という意識がわれわれの身体をトップダウンでコントロールしているのではなく、身体のさまざまな部位からフィードバック(反射)された情報を脳のさまざまな機能が分散処理して制御するボトムアップ型だというのだ。
ならば、なぜ、われわれには「私」という主体的な意識があるのか?
前野教授は、人間のような高度な生物だけがもつことのできる脳の機能を使って、進化の過程で「私」を獲得したと説明する。
その機能とは「エピソード記憶」だ。
記憶は、自転車の乗り方や泳ぎ方など経験によって身体で覚る「言語化できない記憶」と、「言語化できる記憶」に分かれる。
さらに「言語化できる記憶」は、「エサとは何か?」、「敵とは何か?」といった物事の意味を記憶する「意味記憶」と、「昨日あの木のちかくにはエサがたくさんあった」、でも「そのあと岩場に隠れていた敵におそわれて、なんとか逃げ切った」という自分の行動、体験を記憶した「エピソード記憶」に分けられる。
「意味記憶」は下等な哺乳類もつが、「エピソード記憶」は鳥類や高等な哺乳類しかもたないとされる。
エピソード記憶をもつことのできる種は「あそこにはエサがたくさんあるが、昨日敵に襲われた。だから危険を避けて、今日は少し遠くのエサ場まで行こう」などと、時間の経過にそって現れる原因と結果を考えながら行動することができる。
これはエピソード記憶をもたない種よりも生存競争の上で有利だ。
エピソード記憶を獲得したことにより、我々はより複雑な状況に適応して生きることができるようになった。
前野教授はこのエピソード記憶を実現する機能が「意識」なのだという。
人間は自身の体験した情報をすべて記憶しているわけではない。
脳はそれらの情報から必要なものだけ編集し、自分の履歴として編み上げていく。
ただしエピソード記憶として履歴を持つためには、そこに「ありありとした意識体験」がともなう必要がある。
「今朝あのエサを食べておいしかった」、「あのエサはまずくて、そのあとお腹も痛くなった」などの「快感」や「不快感」などの強く印象に残る体験によって、残すべき情報が選択される。
そして「ありありとした体験」を重ねていくうちに「意識」が形成されていく。
われわれの人間観では、常に「意識」というトップダウンですべてを把握し判断を行う強力な司令塔の存在を前提としてきた。
この強力な司令塔という「過大評価」が、心身二元論のように身体とは別の「精神」が実在すると考える人間観を生み出したという。
心を特別な存在としてとらえると、進化のある時点で、「心」は創発的に飛躍して生まれたことになる。
しかし、テクノロジーなら急激な進歩を遂げることもあるが、生物の進化は、日常の中で場当たり的に改良していく営みであり、そうそう飛躍的な変化は起こらない。
だから哺乳類のような複雑な動物も、単純な反射で暮らしている生命体と同じ原理の集合として考えるほうが合理的で、その過程で意識が形成されたと考える方が自然ではないか?
なんといっても我々は彼らの直接の子孫なのだから。
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「いままで高尚なものと誤解されていた意識は、単純な反射で暮らす生き物の生活のなかからエピソード記憶によって自然に形成された受動的なものである」
・・・簡単にいえば、これが前野教授の「エピソード記憶」が意識をつくる「受動意識仮説」の概要だ。
確かにロボットをつくる際、より自然な動きやさまざまな環境に適応させるためには、中央集権型よりも自律分散型の方がうまくいくという。
●ロボットは、生物のように生き生きと動くはずなんです──石黒章夫
WIREDより
でも、ここで私は1つの疑問を感じた。
「エピソード記憶」とはある人が体験した出来事によってつくられた記憶である。
例えば生まれても間もない赤ん坊に「私」という意識はないのだろうか?
育っていくうちにだんだんと「私」が形成されていくのかもしれないが、生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがある人は実感するはずだ。
生まれたての赤ちゃんにも「私」は存在する。
ある子はお乳をあげてもなかなか寝つかなかったり、1人にするとすぐ泣きだしてしまう。
反対にとても大人しく、周囲がいくら騒がしくてもあっという間に寝てしまう子もいる。
ベッドの上で寝たままの(前野教授のいう「ありあり」とした体験をしていない)赤ちゃんの「個性」は、どのように説明がつくだろうか?
またITmediaNEWSの続きの記事には、人間そっくりだが「心」を持たないアンドロイドの例が紹介されている。
2009/5/29 ITmediaNEWSより
このアンドロイドは、赤いものを見れば「赤い」といい、熱いものに触れれば「熱い」と叫び、美しい夕日を見れば「美しい」とつぶやく。
でもこのアンドロイドは、プログラムにしたがって反応しているだけで「美しい」とつぶやいても、そこに「美しい」という意識体験=クオリアは存在していない。
プログラムによる反応が、意識やクオリアのように見えるだけだ。
プログラムを「エピソード記憶」だとすれば、われわれの意識やクオリアも「エピソード記憶」によってつくられていると読み解ける。
だがちょっと待った。
アンドロイドにはプログラムした科学者が存在する。
では、生まれたばかりの赤ん坊に、意識の源となるエピソード記憶を植えつけたのは誰なのか?
皆さんはいつごろから「私」という実感があったか覚えているだろうか?
正確にはわからなくても、かなり幼いころから「自分は自分」と認識できていたのではないか?
もしかしたら親のエピソード記憶があなたに遺伝したのか?
「エピソード記憶」とはある個体がその生活の中で獲得した記憶である。
だからエピソード記憶はその個体限りで基本的に遺伝することはないはずだ。
だが、エピソード記憶が遺伝する可能性が示されたというアメリカのエモリー大学の実験もある。
青山学院大学の福岡教授が執筆している下記の記事がわかりやすい。
ソトコトより
この実験を簡単に紹介すると、マウスにサクラの香りをかがせてそのあと電気ショックをあたえると、マウスはサクラの香りがしただけで身をすくめる動作をするようになった。
そのマウスの子供にサクラの香りをかがせたら身をすくめたか?
実はそんなことはなく、同じようにサクラの香りをかがせて電気ショックをあたえる実験を行ったら、親のマウスよりもサクラの香りに関してより敏感になっただけなのだ。
つまりこの実験は、記憶がDNA配列によって直接遺伝しているのではなく、エピジェネティックスというDNAの働きを調整する働きが遺伝した可能性を示したものだ。
サクラの香りをかいだマウスの子供がビクッとおびえたのなら、記憶が遺伝することにも納得し、親から受け継いだエピソード記憶によって赤ちゃんの頃の「私」がつくられたと理解できたのだが・・・。
「自我」や「無意識」は脳の機能として生じるものかもしれないが、やはりその下に「私」やクオリアという実感を生み出すような「魂」という根源的な何かが存在するのではないか?
まだはっきりとはわからない。
ただしこの記事には受動意識仮説について、もう1つ興味深い示唆がされている。
※前野教授の主張ではなく、この記事を書いた堀田純司氏が書いている。
エピソード記憶の機能を持ち、原因と結果の因果律を獲得するということは、生物が「時間」という概念を獲得することなのかもしれない。
時間軸上で解釈される原因と結果の連鎖として、生物の概念の中に時間が生まれたのだ。
・・・この考え方は、「相対論的スポットライト理論」でも紹介している「時間はどこで生まれるのか」の著者、橋元淳一郎氏の主張にも通じるところがある。
次回は橋元氏の主張をもとに、「意識と時間の関係」、「意識から想起される時間」について考察していく。
「くどい! 早くリモート・ビューイングの原理とやらを教えろ!」と非難されるかもしれないが、もうちょっと(おそらくあと2回ほど)考察にお付き合いをいただきたい。