2017/7/28
「過去に戻ることはできない」
いきなりこのサイトのメインテーマを否定してしまったが、
「過去へタイムトラベルする方法はある」
これは矛盾している。いったいどういうことか?
このサイトでは今までに、さまざまな「過去へタイムトラベルする方法」を考察してきた。過去に戻ることができないのならば一大事である。
この矛盾を詳しく説明するまえに、考えるきっかけとなった記事を紹介する。
2017/7/17 不思議.netより
スレ主は、タイムマシンで過去を変えることができても、その事実はすでに歴史の中に織り込み済みで、歴史は1つしかなく、変えることはできないと主張している。
記事の中で、この主張を端的に説明したとてもわかりやすいレスがあった。
バック・トゥ・ザ・フューチャーを見るやん?
アイツら必死に未来とか過去を変えようとがんばって実際に色々変えてるやん?
でもワイらが映画を見れば何度見返しても絶対同じ結末になるやん?
つまりこのレスは、主人公(マーティたち)の主観的な視点から見たタイムトラベルと、われわれ視聴者の客観的な視点から見たタイムトラベルを説明している。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、マーティはドクとともに自分たちの未来を望むものに変えようと過去に戻って試行錯誤する。その結果、未来を変えることができた。
しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の物語を映画やDVDで見ているわれわれにとっては、いつも同じストーリーだ。
われわれの客観的な視点からすれば、マーティが行った数々の改変もすべて織り込み済みで、バック・トゥ・ザ・フューチャーのストーリー(歴史)は1つしかない。
これが実際の歴史でも起きているというのである。
ここで注目したいのは主観的な視点と客観的な視点である。
本当の意味で「過去にもどることはできない」
最初に述べた結論にいたったのは、この主観的な視点と客観的な視点の違いに気づかされた1冊の本を読んだからだった。
その本とは、現在京都大学大学院の准教授である哲学者、青山拓央氏の新版「タイムトラベルの哲学」 (ちくま文庫)だ。
タイトルに魅かれて読みはじめたが、今までタイムトラベルの方法論、原理論を中心とした物理系の本ばかり読んでいた私にとっては、とても新鮮だった。
何が新鮮かというと、この本は古代ギリシアの哲学者ゼノンのパラドックス「アキレスと亀」や「飛ぶ矢」のような哲学的な時間論を中心にタイムトラベルの考察がされている。
その中で特に印象に残ったのが、本当の意味で「過去には戻れない」という青山氏の主張だった。
まず下の図1をご覧いただきたい。
図1はバック・トゥ・ザ・フューチャーに代表される一般的な過去へのタイムトラベルを説明している。
青い矢印は客観的な時間、黄色い矢印は主人公マーティの主観的な時間を表わしている。
図1は客観的な時間を主軸にした図である。
客観的な時間(青色)は左から右へ進んでいる。
マーティはA地点(未来)からタイムマシンでB地点(過去)へタイムトラベルする。このときマーティの主観的な時間(黄色)はA地点まで進んでB地点まで戻る。
次に図2を見てもらいたい。
図2はマーティの主観的な時間を主軸に描いている。
タイムトラベル前(A地点より左側)では、マーティは客観的な時間(青色)と主観的な時間(黄色)を共有している。
しかしA地点からB地点の過去へタイムトラベルするとき、マーティは主観的な時間のみを知覚する。
このとき奇妙なのは、「過去へ戻っている」のにマーティの時間はなぜか前に「進んでいる」のである。
これが青山氏の哲学的な時間の考察だ。
過去にタイムトラベルしようとしてもマーティの主観的な時間は常に前に進んでいるので、「進む先を未来」とするのならば、マーティは常に未来へ進むことしかでない。つまり本当の意味で「過去に戻れない」のである。
さて、もし仮に主観的な時間といっしょに客観的な時間まで過去へ戻ってしまったらどうなるか?
たとえA地点(未来)からB地点(過去)へのタイムトラベルが成功したとしても、これはただの巻き戻しである。
マーティの主観的な時間とともに客観的な時間まで過去に戻ってしまうので、マーティにとっては何の変化も感じられない。
つまりこのタイムトラベルには何の意味もないのである。
結果としてわれわれが考えるべき過去へのタイムトラベルは、主観的な時間のみが過去へ戻るタイムトラベルなのだ。
だから今まで考察してきた過去へ戻る方法は、すべてこの「主観的な時間が過去へ戻るタイムトラベル」であり、「過去へタイムトラベルする方法」を考える意味があるのだ。
ご意見があれば、ぜひこちらまで。